春日局ゆかり

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「春日局」 早乙女貢著 講談社 2006.10

著者;(1926〜2008)、満州(ハルビン)に生まれる。本名は鐘ヶ江秀吉。戦国から幕末維新までの小説が中心。昭和43年(1968)・『僑人の檻』で直木賞受賞。曾祖父は会津藩士、その影響で維新史も手掛ける。平成元年(1989)・『会津士魂』(全13巻)で吉川英治文学賞受賞。『新会津士魂』の続刊も刊行している。 


■信長の最期・豊臣の終焉・徳川の動乱期を生き抜いた大奥の女帝・・この異常なたくましさは山崎合戦で父を処刑された積年の思いから男性作家が書く『春日局』というのは一体どのようなものなのか、「大奥のこまごましたことを書き記している」のか、それとも「ダイナミックな歴史小説」なのか・・それは後者の方でした。書物の前半は斉藤福の父が合戦で敗れ、捕まり処刑されて、斉藤一家が逃げて陰をひそめてひっそり暮らすようすや、お福が家光の乳母に抜擢されるまでが丹念に描き記されています。タイトルが「春日局」なので、大半が大奥だと思いましたが大違いでした。たしかに「春日局」の大奥編は様々な小説にあるので、どれもが大奥編でなくていいわけです。華やかな生活を送る以前のお福の苦労の前半生が丹念に記されていました。

実際は裕福な家にひきとられ暮らしぶりは良かったようですが、父が処刑されたことへの恨みはなみなみならぬものがあったと思います。斉藤家をねらう忍者が出没したり、悪党を刀で成敗するたくましいお福の姿もあります。至る所で剣が飛び交う雄々しい仕立てになっています。

お福の父・斉藤利三(としみつ)は天正10年(1582)、6月2日本能寺の変を起した明智光秀の重鎮で従弟にあたる。6月13日の山崎の合戦で敗北し近江の坂本で捕まり4日後の17日、市中ひきまわし・六条河原で処刑されます。その後斉藤一家を蔭で支えてくれたのはお福の父の友人・海北友松(かいほくゆうしょう・絵師)でした。この海北が、真如堂の住職である東陽坊長盛(とうようぼうちょうせい)と組んで、利三が処刑された6月17日の夜に利三の遺体を奪還します。その時の様子が生き生きと描写されています。遺体は真如堂に葬られ、後に3人の墓が並んで建てられます。

出世のチャンスを逃さないで貪欲なまでの上昇志向、本書のクライマックスは、慶長9年(1604)、お福が京都所司代・板倉勝重から徳川秀忠・お江与の方(淀度の妹)の間に生まれる家光の乳母として抜擢されて、所司代にお目通りする場面でしょうか。お福は三男を出産した後、板倉勝重に夫婦そろって呼び出されます。このころお福の夫・稲葉正成とその一族は蓑で貧しい生活をしていました。

夫の稲葉正成は51万石の小早川秀秋の家老でしたが、慶長7年(1602)10月、主君の小早川秀秋が28才で亡くなると、跡継ぎのいなかった小早川家はとり潰しとなり改易されました。それにともないお福の夫も一介の浪人となりわずかの貯えで細々と暮らしていました。こんな折、お福が一陽来福と喜び勇んで積極的に乳母の話を受け入れた様子が生き生きと記されています。

お福が大奥にあがったおかげで稲葉家一族がぐんぐん潤ってきます。本来ですと父親が逆賊で処刑されたような家系から将軍家の乳母に抜擢されるわけもないのですが、徳川政権がまだしっかり治まっていない「何でもあり」の時代だったのでお福に出世のチャンスがめぐってきたのだと本書に記されています。お福は出世のチャンスをフルに活用します。お江与の方の次男でライバルの国松をはねのけて、元和9年(1624)、家光(20才)を三代将軍に押し上げます。次第にお福は大奥初の大年寄として大奥を統括、絶対的な権限を有する大奥の女帝になっていきます。

●小説では京都所司代板倉勝重に直に推挙されたことになっていますが、実際には乳母(うば)は公募だったという説もあります。そうするとお福はすすんで志願したことになります。

また、お福が選ばれた理由は、
1.お福が親戚の三条西公国(公家)に養育され、書道・歌道・香道・文学など公家の教養を身に付けていたこと
2.夫の稲葉正成は小早川秀秋の家臣で、関ヶ原の合戦で秀秋を徳川につくように積極的に働きかけた戦功があったこと

などが認められたようだ。お福の父は信長を倒した明智側だったし、徳川家にしてみるとお福夫婦は反信長・反豊臣という共通点を持ち合わせたカップルだったのです。

●時代背景も克明に描写、徳川の宗教的黒幕にも目を向ける

豊臣と徳川の確執も随所に現れています・・慶長19年(1614)の方広寺鐘銘(写真;国家安泰・君臣豊楽)事件や大坂冬の陣、和睦とだまし大坂城の総堀を埋めていった時のようすや大坂夏の陣(1615)のようす。筆者は「家康は千姫の命など大坂に嫁がせた時からどうでもよかった」と述べています。徳川絶賛というわけでもありません。方広寺鐘銘事件陰謀を計り、鐘楼に難癖をつけた金地院の崇伝住職、上野寛永寺・南光坊天海が徳川の宗教的黒幕と記されています。終盤はお福が京に上って天皇に拝謁(はいえつ)し、従二位・春日局の称号を賜ってますます大奥で権力が絶大になっていくさまが記されています。

感想・・春日局とその時代背景が圧巻でした。春日局は家光を溺愛、一方お江与の方は、国松を溺愛。春日局とお江与の確執の底流には、本能寺の変も関与していると思います(春日局の父は明智側、お江与は伯父が信長)。お江与の方は将軍家世継ぎの争いに負け、失意のうちに春日局より早く亡くなって気の毒でした。大奥も強きものが弱者を制す戦場だったと思います。

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