春日局(1579〜1643)ゆかり

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金王(こんのう)八幡宮

★源義家、渋谷氏ゆかり ★春日局ゆかり・・神門・社殿寄進
 

東京都渋谷区渋谷3−5−2   2012.2


■この八幡宮は平安時代、堀河天皇の御代、寛治(かんじ)6年(1092)に鎮座した。桓武天皇の曾孫である高望王の後裔(あとすえ)で、秩父別当・平武基は、源頼信による、「平忠常の乱」平定において功績をのこし、軍用八旒(はちりゅう)の旗のうち、日月二旒(にりゅう)をもって、秩父妙見山に納め、八幡宮と崇(あが)め、奉(たてまつ)った。

■平武基の子・平武綱は、嫡子・平重家と共に、「後三年の役」(1087)の源義家の軍に300余騎を従え、1番で参向し、仙北金沢の柵を攻略した。その大功により、平武綱は、名を「河崎土佐守基家」と賜り、武蔵谷盛庄(現在の渋谷区一帯)を賜った。

■源義家は、この勝利は平武綱(平基家)の信奉する八幡神の加護であるとして、平基家が拝持する秩父妙見山の月旗を乞い求め、この渋谷の地に八幡宮を勧請した。

■渋谷発祥の地・・「渋谷城、砦の石」

平基家の嫡子、平重家は禁裏(京都御所)に進入した賊を退治したことにより、堀河天皇より、「渋谷」の姓を賜った。渋谷氏は、
渋谷重家(平重家)以来、当八幡宮を中心に館を構え、居城とした。渋谷氏は代々当八幡宮を氏族の鎮守と崇めた。これが渋谷の発祥ともいわれ、現在も境内に「渋谷城、砦の石」が保存されている
















渋谷の総鎮守

渋谷氏が
武蔵谷盛庄七郷(渋谷・代々木・赤坂・飯倉・麻布・一ッ木・今井)を領したので、当八幡宮は、鎌倉街道(現、八幡通り)、大山道(現、青山通り・道玄坂)を中心とする渋谷・青山の総鎮守として現在も数多くの崇敬をあつめている。

当八幡宮は、「渋谷八幡宮」と称されていたが、渋谷重家の子・渋谷金王丸(こんのうまる・・1141〜1185))の名声に因み、「金王八幡宮」と呼ばれるようになった。金王丸は17歳の時、源義朝の家来となり保元の乱(保元元年1156、後白河法皇方の勝利、崇徳上皇は讃岐へ配流・源為義は斬首)で勝利するが、平治の乱(平治元年1159、平清盛勝利)で敗退。主君の源義朝が東国へ逃れる途中、家来・長田荘司忠至の背信(寝返り)により尾張国野間で刺殺される。金王丸は主君の仇を討ち、渋谷庄に帰還。出家し土佐坊昌俊と名乗り主君の霊を義朝を弔う。が、後に源頼朝(義経の腹違いの兄)の命で、意に反し主君義朝の子・義経の討伐に泣く泣く参戦したという。



●平成29年は、金王丸生誕871年、八幡宮御鎮座926年を迎える
















●鳥居

●神門(赤門・・渋谷区指定有形文化財)・・江戸時代後期・・春日局が慶長17年(1612)に寄進













●手水舎  ●ゆったりとした境内・・背後に高層ビルも見える












●神木 ●本殿(御社殿












●本殿(御社殿)・・渋谷区指定有形文化財・・江戸時代初期・・春日局寄進


神門と御社殿・・徳川秀忠の世、慶長17年(1612)、青山伯耆守忠俊と春日局によって多大な資財(金百両、材木)が寄進され造営に至る。竹千代(後の家光)9歳、国松(後の忠長)7歳の頃(1612年)、家光の教育役・青山忠俊と春日局は家光の世継ぎをめぐって当社で出世祈願をしていたが、家光の具始の儀が整い、神の加護として深く喜び造営に至ったという。

社殿は権現造りで江戸時代の様式を現在にとどめる。絢爛豪華な装飾を帯び、東照宮を彷彿とさせる。













拝殿正面左右の「虎(正しいまつりごとへの祈り)と貘(世の安寧への祈り)」・・大変珍しい装飾とされている











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