春日局ゆかり

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★喜多院  埼玉県川越市小仙波町1−20−1  

「家光誕生の間」・「春日局化粧の間」  2011.8


川越大師と呼ばれる喜多院は、天台宗の寺で元三大師をまつる。奈良時代の天長7年(830)、淳和天皇の勅願により、慈覚大師円仁を開山として創建され、無量寿寺と呼ばれた。

慶長4年(1599)、徳川家の尊崇の厚かった天海僧正(慈眼大師)が第27世の住職となる。慶長16年(1611)11月、徳川家康が川越を訪れたとき、僧正と接見している。徳川家との関係は益々強まり、寺号が「喜多院」となった。慶長18年(1613)、徳川秀忠により、関東天台宗総本山に定められた。徳川家代々の加増により寺が隆盛を極めた。


●山門(重文)・・1632年、天海僧正により建立される。火災にあわず、この寺で最古の建築物。












●山門裏の番所  ●太子堂  ●多宝塔(県指定文化財)















●鐘楼門(重文)・・銅鐘付き

元禄15年(1702)年に建立。装飾・色彩が鮮やか。江戸時代の喜多院の寺域は、現在よりも相当広く、鐘楼門は、境内のほぼ中央に位置した。慈眼堂へ向かう参道の門と位置づけられていた。銅鐘を撞いて時を知らせ、僧の日々のお勤めを導いたとされる。





装飾が美しい。










●客殿(重文)・・寛永15年(1638)建立・・「三代将軍家光公誕生の間」

客殿に入ると、そこは江戸時代にタイムスリップした雰囲気がありました。「江戸参勤交代の図」・「松竹梅の蒔絵の三宝」・「食膳器」・「駕篭」・「小型の木馬」。そして大河ドラマの「江」が家光を出産した部屋があり、床の間に鎧・兜が飾られてありました。


誕生の間の天井の模様













●玄関  

●書院(重文)・・寛永16年(1639)建立・・「春日局化粧の間」(撮影禁止)

8畳が2つと、12畳の部屋が2つの計4部屋がありました。船箪笥(ふなたんす)・鎧櫃(よろいひつ)・葵蒔絵持(あおいまきえもち)・竹皮黒漆地笈(ちおい)・公武合体皇女和宮の長持・手鏡・家光使用の落印雅号印・・などが展示されていました。本当に江戸時代って感じでした。また、書院の奥には、江戸城紅葉山の遠州流(えんしゅうりゅう)庭園がありました。

■なぜ、ここに客殿・書院が移築されたのか・・家光が復興指示

寛永15年(1638)1月の川越大火で、現存の山門(寛永9年建立)以外の堂宇はすべて焼失しました。そこで3代将軍徳川家光は、今時の職務で言うと復興大臣・堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかからせました。江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して、客殿、書院等に当てました。家光誕生の間、春日局化粧の間があるのはそのためです。その他の堂宇も次々に再建し、今日、文化財として大切に保存されています。













●庫裏・寺務所  ●玄関につながる回廊(外側と内側)












●回廊 ●回廊から見える「家光手植えの枝垂れ桜」 ●客殿の庭・・灯籠や朱い橋










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