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京都シリーズV

落柿舎(らくししゃ)2.

右京区嵯峨小倉山緋明神町2  
 2013.9


◆ここは松尾芭蕉十哲の一人として名高い向井去来(1651〜1704)が、35才のころから草庵を結んでいた所。去来は長崎の生まれ、芭蕉に師事して俳諧を学び、その芭蕉をして「洛陽に去来ありて、鎮西俳諧奉行なり」といわしめた。かつて武人であった去来は極めて篤実真摯な人柄で、芭蕉に仕える様はちょうど親に対するようであったと伝えられている。

◆落柿舎の名・・当時、庭にあった40本の柿の実が、一夜のうちにほとんど落ちつくし、去来はかねて買約中の商人を気の毒に思って価を返してやったことに因む。

●落柿舎前の風景・・この辺りは小倉餡発祥の地とされています


























●門












■茅葺屋根の本庵・・ウメモドキの実が美しい























●落柿舎のシンボル・・蓑と笠・・主が在宅の印となる















●土間   ●玄関から見た室内の生け花












●手前が4帖半で縁側がついています。奥は3帖、あと2帖が2つあるので、現在では4K?と広い。












●去来の句が展示されています・・・「柿主や こずえはちかき あらし山」















●芭蕉の句・・「五月雨や 色紙へぎたる 壁の跡」

松尾芭蕉は晩年、三度に渡り当庵を訪れ名作『嵯峨日記』を著した。この句は『嵯峨日記』の最尾にしるした句。去来宅で親しみ、くつろいでいた様子がうかがえる。













●昭憲皇太后の句・・「加茂川の はやせの波の うちこえし ことばのしらべ 世にひびきけり」

明治35年、昭憲皇太后が嵯峨天皇の皇女・有智子内親王(うちこないしんのう)を称えられた御歌。有智子内親王(807〜847)は、第52代嵯峨天皇の第八皇女で、弘仁元年(810)、わずか4才にして上賀茂神社・下鴨神社に奉仕する初代斎院となりました。葵祭りの初代斎王も務めました。幼少より豊かな才能に恵まれ、17歳の時、当代一の女流漢詩人としてもその名を馳せました。【有智子内親王は弘仁14年(823)(当時17才)、斎院の花宴(かえん)の日、即詠で見事な詩をつくられ、列座の文人がみな驚き、嵯峨天皇も讃嘆せられた】

その名誉を詠まれた歌。因みに有智子内親王の墓は落柿舎の並びにあります。


昭和の落柿舎復興に尽力した
釋瓢斎(しゃくひょうさい)の供養塔












●俳人を供養する俳人塔(五輪塔)












■次庵・・ここは拝観できませんが、句会では利用されています。












●鹿おどし   ●次庵前の柿の木・・一部の柿が色づいていました。























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