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◆戦国武将の館W


★関ヶ原古戦場4.・・笹尾山・石田三成陣跡



岐阜県不破郡関ヶ原町  2012.5

■標高198mの笹尾山の麓には、石田三成の軍旗や、史実に基づいた二重の竹矢来・馬防柵がある。関ヶ原の戦いでは三成軍は6千の兵力を持ち、西軍の司令塔となった地点である。


































●山道を5分ほど登ると展望台に着く












●石田三成陣地の旗や三成の軍旗がそよぐ展望台















●休憩所












●石田三成陣地

ここ笹尾山一帯の石田隊6千余は正面に竹矢来(たけやらい)の柵を二重にして、前衛隊長の島左近らの指揮のもと、すさまじい死闘を展開した。小早川らの裏切りは戦況を一変させ、西軍の実践兵力は3万5千前後に激減した。西軍の敗色が濃くなった折、三成はもはやこれまでと北国街道を敗退していった。















●展望台には関ヶ原合戦陣形図があります・・ボタンを押すと説明が流れます












●展望台からの眺め

●戦国ロマンの地・・関ヶ原合戦(1600年9月15日)・鶴翼(かくよく)の陣形で臨んだ西軍

石田三成は戦況がよくわかるこの地に陣を設営。慶長5年(1600)9月15日、西軍は開戦当初、山や丘を抑え、鶴が翼を広げたような「鶴翼の陣」という有利な陣形で戦に臨む。東軍7万4千に対して、西軍8万4千・・と西軍は負ける人数ではなかった。

当日の朝6時に両軍が布陣、8時に東軍の松平・井伊隊が宇喜多隊に発砲し開戦となる。午前の戦いは西軍が優位にあったが、正午頃の小早川の裏切りで戦況が一変する。小早川に反応した、赤座直保・小川祐忠・朽木元綱・脇坂安治ら4大名も東軍に寝返る。三成の朋友だった大谷吉継は小早川やその反応軍(4隊)に攻められ、午後1時頃自害、午後2時過ぎ西軍の敗北が鮮明となり、西軍は敗走する。

★関ヶ原古戦場で、眺めの良いこの地が一番のメイン会場のように思う。仲間の裏切りによって敗北した石田三成をはじめとする西軍の兵士の空しさ・くやしさがよく伝わってくる。全国的に西軍を支持するファンが圧倒的に多いのは、石田三成の亡き主君・秀吉への忠誠心と、利得で徳川家康に屈しなかった清らかな心に、人々は共感するのである。「武士道の精神を貫けば、末代までその名が残る。武士道に反する卑怯な生き方をすれば、末代までその名が残る。」とこの戦いは教えてくれた。

412年前、石田三成が見た、眺めた場所に立てて感無量である。











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