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◆戦国武将の館W


★建仁寺茶席・東陽坊・・秀吉ゆかり


京都市東山区大和大路四条下る小松町  
2012.5


■三門(望闕桜・ぼうけつろう)

大正12年、静岡県浜名郡・安寧寺から移築。御所を望む楼閣という意味で名付けられました。三門前の池とも調和しています。
























■方丈裏手にある茶室・・飛び石、燈籠、つくばい






















■東陽坊(とうようぼう)・・北野茶会(天正15年・1587)で使われた茶席

利休高弟の一人、真如堂長盛(ちょうせい)の好みといわれ、秀吉の北野大茶会にて紙屋川の土手に建てられた副席と伝える。手軽い屋根の構成が魅力ある草庵茶室の外観を形づくっている。内部は二帖台目の茶席、一帖の合いの間、二帖台目向板の控室、板の間の水屋からなる。二帖台目席の最も優れた規範的な形と言われている。
















にじり口と、内部























★茶席近くの「安国寺恵瓊(あんこくじえけい)首塚」

●安国寺恵瓊・・豊臣秀吉家臣、僧侶で大名となる

安国寺恵瓊は天文7年(1538)安芸国守護武田氏の一族として生まれた。天文10年(1541)、大内氏との戦いで武田家が滅亡し、当時四歳だった恵瓊は安国寺に身を寄せることとなる。以後12年間当寺で仏道修行に精進し、16歳のときに生涯の師と仰ぐこととなる笠雲恵心に巡り会う。この直後、恵瓊は京都東福寺に入り五山禅林の人として修業を重ねた。
 
そして、恵瓊35歳の時、正式に故郷、安芸安国寺の住持となり、この頃から毛利家の政治にかかわる外交僧として活躍をはじめる。羽柴秀吉が率いる織田軍が中国地方に侵攻してきた際には、毛利氏の使者として秀吉との交渉にあたり、この交渉を通じて秀吉との繋がりが深まったといえる。
 やがて、天下人となった秀吉は、恵瓊を直臣の大名に取り立て、伊予国2万3千石を与えた。恵瓊は僧侶の身分のまま戦国大名となったのである。また恵瓊は、建仁寺の方丈の移築をはじめ東福寺の庫裏の再建など、旧来の建築物の修復に関与し、多くの功績を残している。

 その後恵瓊は慶長5年(1600)、関が原の合戦において主家毛利氏を石田三成らの西軍に見方させ、自身は西軍の最高首脳として暗躍するも、小早川秀秋が東軍に内応したこともあって、西軍は敗退。恵瓊は毛利家西軍荷担の罪で同年10月1日、京都六条河原にて斬首され、63歳の波乱の生涯を閉じる。

この首塚はその恵瓊の首を建仁寺の僧侶が持ち帰り、ゆかりのある当寺の方丈裏に葬ったものである。














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