戦国武将の館W・目次に戻る

TOPページに戻る


◆戦国武将の館W

★斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址

足利義輝・義昭ゆかり

京都市上京区下立売通烏丸西入る・平安女学院  2012.5

斯波義将武衛陣

室町幕府「第一の家格」として三管領筆頭だった斯波義将(しばよしまさ・・1350〜1410)は、宮中御所等を守護していた兵衛府(ひょうえいふ)の唐名をとって武衛(ぶえい)と呼ばれていた。斯波氏が、室町通り勘解油小路(かでのこうじ)に邸宅を構えたため「かでのこうじ殿」と呼ばれることもあったが、いつしかこの地と邸宅は、武衛の名をとって武衛陣と呼称されるようになった。武衛陣は応仁の乱で戦火に遭い消失したが遺址付近は現在も武衛陣町と呼ばれている。

足利義輝邸宅跡

後年、室町幕府第13代将軍足利義輝(1536〜65)が当地に邸宅を構えて政務をとった。しかし永禄8年(1565)、松永久秀らに襲撃され死去、邸宅も消失した。












■足利義昭 旧二条城址

永禄12年(1569)、織田信長が武衛陣跡地を拡張し、室町幕府最後の将軍・足利義昭(1537〜97)のため旧二条城を建設した。(平安女学院角地)

★この頃の信長と足利義昭

この城を建て直した頃(1569)の二人の関係は必ずしも良くない。前年に上洛出陣し、義昭を第15代将軍に担ぎ出した信長はこの年に、16項目に及ぶ「殿中掟」を制定し、将軍とは名ばかりの義昭の傀儡化(かいらいか)を断行した。これによって二人は対立を激化させていく。また信長は義昭から副将軍になるよう勧められるが拒否している。そんな中で二条城建設工事が行われていた。



■平安女学院

維新後の明治28年、この「武衛陣・旧二条城」跡地に、平安女学院が大阪より移転し今日に至る













戦国武将の館W・目次に戻る


TOPページに戻る

inserted by FC2 system