戦国武将の館W・目次に戻る

TOPページに戻る


◆戦国武将の館W


★特別史跡・安土城跡・・織田信長ゆかり

滋賀県近江八幡市安土町  2012.6

標高192mの安土山に位置する安土城の築城は、織田信長が武田勝頼を長篠の合戦で打ち破った翌年、天正4年(1576)に始まります。築城にあたっては、畿内・東海・北陸から多くの人夫が挑発され、当代最高の技術を持った職人達が動員されました。まさに安土城は天下統一の拠点となるべく当時の文化の粋(すい)を集めたものだったのです。

築城開始から3年後の天正7年(1579)には天主が完成して信長が移り住みました。しかしその3年後の天正10年(1582)に本能寺の変で信長が殺されると、城は明智光秀の手に渡り、その光秀が羽柴秀吉に敗れたすぐ後に天主・本丸は焼失してしまいます。それでも安土城は織田氏の天下を象徴する城として、秀吉の庇護の元で下信長の息子信雄(のぶかつ)や孫の三法師が入城を果たし、信長の跡を継ぐものであることをアピールします。

しかし、天正12年(1584)年小牧長久手の戦いで信雄が秀吉に屈すると織田氏の天下は終焉を迎え、翌年の1585年、安土城はその役目を終えて廃城となるのです。その後江戸時代を通じてが信長が城内に建てたハ見寺(そうけんじ)がその菩提を弔いながら、現在に至るまで城跡を守り続けていくことになります。安土城は大正15年(1926)に史蹟に、昭和27年(1952)に滋賀県蒲生郡安土町・東近江市(旧能登川町)にまたがる約96万平方メートルが特別史跡に指定されました。

●安土城の入り口にあたる大手口から本丸向かって伸びる巾8m・全長180mの石段が続く大手道。防御ではなく見せる階段を意識した。勾配はかなりあり、なだらかではない。

●大手口を登ってすぐの左手に羽柴秀吉邸跡がある。右手には前田利家邸跡があり、両者は安土城の入り口の警護を任されていたことがわかる。


























●さらに登ると秀吉の主殿跡も出てくる。この規模からして、秀吉が信長から厚い信頼を得ていたことがわかる。












●ハ見寺(そうけんじ)

信長が自らの菩提寺として建てた寺。臨済宗妙心寺派の寺。1582年の安土城炎上の際、焼け残った。この寺は代々安土城を見守ってきた。















寺にある徳川家康邸址・・ハ見寺江戸の末期・1854年に焼失し、仮本堂が徳川家康邸跡に建てられた。本堂には信長公像が祀られている。信長愛用の陣羽織や、負けずの鉄鍔(てつつば)が残る。















●寺から40段ほど登り、振り返った景色  ●急傾斜の階段

●石段に利用された石仏がいくつもあります。石仏にはお賽銭が置かれています。












●見晴らしのいい中腹でひと息












●黒金門(くろがねもん)址












●石段に石仏と同様、利用されていた仏足石。室町中期の仏足石は珍しい。

●二の丸址












●二の丸址にある信長公本廟

天正11年(1583)、秀吉が信長公ゆかりの太刀・烏帽子・直垂(ひたたれ)を埋葬して御廟とした。またこの年は秀吉主催で盛大な一周忌が京都・大徳寺で催された。















●本丸跡










●天主閣址

東西南北28mの台地には不等辺八角形の石垣が巡っている。ここに地上6階・地下1階の天主がそびえ立ち、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは「ヨーロッパでもみられないほどの壮大さである」と本国に手紙を送った。(写真右;「信長の館」にあるレプリカ)












天主閣址からの眺め










戦国武将の館W・目次に戻る


TOPページに戻る

inserted by FC2 system