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◆戦国武将の館W


★聚楽第4.・・本丸の石垣発見

京都市上京区上長者町裏門東入須浜町568番13(地番)  

2012.12   

京都府埋蔵文化財調査研究センターは12月21日、秀吉が建造した、豊臣政権中枢の居城・聚楽第跡で、本丸の石垣とみられる長さ32メートルの遺構を発見したと公表。

★聚楽第は、豊臣秀吉が平安京の大内裏跡(上京区)に建てた居住用の城です。天 正14年(1586)2月に着工し、翌年の9月に完成しました。聚楽第工事を着工した頃の秀吉(50才)は関白太政大臣として高い地位にのぼりつめた頃で した。のべ6万人の人夫を動員し、京都の町を御土居(おどい)と呼ばれる土塁(どるい)と濠(ほり)で囲み、その中に聚楽第を築きました。五層の天守閣は 邸宅というより城郭でした。至る所に金箔をほどこし、建物の軒先にも金箔の瓦が飾られました。当時の大名屋敷跡から金箔瓦が出土しています。聚楽第はひと きわ華麗で目立ち、かつ侘びの精神も取りいれた桃山建築を代表する建物でした。

★悲劇の城・・聚楽(じゅらく)とは長生不老の楽しみを聚(あつ)むるものという意味があります。そのような意味合いを持つ聚楽第はその名に反して、秀吉の甥・秀次との権力闘争の中、悲劇的な末路を遂げました。
文禄4年(1595)7月、秀次は高野山に追放され、切腹。8月3日・秀次の家族38人が三条河原で処刑。同日、聚楽第は取り壊され、建物の大部分は伏見城に移築される。・・秀吉はこの3年後、他界する。

●今回、整然と並ぶ巨石の石垣が発見されたことにより、これまで聚楽第は徹底的に破壊されたという説が覆されました。聚楽第の遺構がまだ地下に眠っている可能性があることが示唆されました。












●この遺構は24日に現地説明会が行われ、翌日埋められました。もったいない.













●場所は上長者町通(東西)と黒門通(南北)が交差する四つ角、京都府警の待機宿舎建設現場の一角にあります。建設に伴う発掘調査で石垣が発見されました。












●遺構現場に接する比較的巾の広い黒門通   ●遺構現場向かいには宅急便の配送センターがあります。遺構現場斜め向かいにはセブンイレブンがあります。

●日本史研究会(上京区)は2013年2月8日、建築計画を停止し、石垣を国の史跡にし、石垣を保存有効活用する要望書を京都府と府教委に提出しました。











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