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霊厳寺(れいがんじ・浄土宗)・・松平定信墓所

2014.7  

東京都江東区白河1−3−32(清澄白河駅下車徒歩4分)

●深川江戸資料館の隣に位置する






























●銅造(どうぞう)地蔵菩薩坐像(大正10年3月 東京都指定有形文化財・彫刻)

江戸六地蔵の一つ(高さ2.7mと巨大)

江戸六地蔵の由来は、その一つ太宗寺(たいそうじ・新宿2丁目)の像内にあった刊本『江戸六地蔵建立之略縁』によれば、江戸深川の地蔵坊正元(しょうげん)が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都の六地蔵に倣って(ならって)、宝永3年(1706)造立の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中六ヶ所に地蔵菩薩をそれぞれ一体ずつ建立したと伝えられています。各像の全身及び蓮台には勧進者、その造立年代などが印刻されており、神田鍋町鋳物師太田駿河守正義によって鋳造されたことがわかります。















●国指定史跡 松平定信墓

松平定信(1758〜1829)は、八代将軍徳川吉宗の孫。御三卿(ごさんきょう)のひとつ、田安宗武の子として生まれ、幼名は賢丸(まさまる)といった。陸奥白河藩主松平定邦の養子となり、松平定信の名に改名。陸奥白河(福島白河)藩主となり白河楽翁を号していた。

天明7年(1787)6月に老中となり、寛政の改革を断行し、寛政5年(1793)、老中を辞している。定信は老中になると直ちに札差統制(旗本、御家人などの借金返済)・七分積立金(江戸市民の救済)などの新法を行い、幕藩体制の立て直しを計った。

また朱子学者でもあり『花月草紙』『修身録』、また自伝『宇下人言』(うげのひとごと)などの著書がある。















               


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