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皇居東御苑・・江戸城の痕跡が残る  
2017.8  東京都千代田区


★北桔橋(きたはねはし)門・高麗門・・東御苑の北、天守閣近くの北に位置する   ●乾濠














■江戸城

長禄元年(1457)に太田道灌によって築城された。天正18年(1590)徳川家康の居城となった。文禄元年(1592)から大規模な改修が実施され、慶長12年(1607)に天守閣が、寛永13年(1636)に総構(そうがまえ)が完成し、大城郭としての形が整えられた。その後、明暦3年(1657)をはじめ、大火に見舞われるものの、城郭の規模は幕末までほぼ維持された。
★天守閣跡












★大奥跡・・天守閣跡前の芝生広場












●大奥・井戸跡とその周辺












●石室・・火事など非常時の、調度品の保管(避難)場所として使われたと考えられる












★富士見多聞・・長屋の防御施設

江戸城には多くの多聞がありましたが、現存するのは、この富士見多聞と、伏見櫓の左右にある多聞だけになりました。現在の多聞は、明暦の大火(1657)の後、諸建物が再建された際に建てられたものと考えられます。「御休息所前多聞」とも呼ばれています。















●蓮池濠が見えます












●出口










●富士見多聞の先にある、松之大廊下跡












★富士見櫓

櫓(やぐら)は、城の隅など重要箇所に造られる防御施設の役割を持った建物で、かつて江戸城には多くの櫓がありました。現存のやぐらは、この富士見櫓、伏見櫓、巽櫓の3つとなりました。富士見櫓は明暦の大火で焼失しましたが、その後まもなく再建され、天守の代用としても使われていました。将軍が藤さんや両国の花火、品川の海を眺めたといわれています。















●狭間、石落とし

一階出窓に取り付けられた攻撃施設







★汐見坂・・本丸から二の丸へ下る坂  ★梅林がある、梅林坂












★平川門・平川濠

大手門が正門であるのに対してこの門は御殿勤めの奥女中などの通用門として使用されていました。大手門と同様、厳重な防御の構造となっています。また、城内で罪人や死人が出るとこの門から出されたといわれています。












●平川門・高麗門   ●平川門・渡櫓門











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