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永青(えいせい)文庫・・肥後細川庭園(肥後細川家 下御殿跡地)内 

2017.10  東京都文京区目白台1−1−1


■この地は江戸時代中期、旗本の邸地となり、江戸末期には大名の下屋敷となり、幕末に肥後熊本54万石の藩主細川越中守の下屋敷となりました。第二次世界大戦後、所有者が数度変わり、その後1961年に都立公園として開園しました。1975年に文京区に移管され今日に至っています。

今年(2017)の3月18日に「新江戸川公園」から「肥後細川庭園」に名称が変わり、お祝いの式典が行われました。式典には細川家18代当主で元首相の細川護熙(もりひろ)氏、熊本県知事、熊本市長、くまモンが参列し式を盛り上げました。

●細川家の九曜の紋
















●池泉回遊式庭園を眺めながら、斜面を登ると永青文庫があります












●祠と禅宗を彷彿とする門














■永青文庫

室町時代から今日まで、脈々と続く細川家に伝来する重要美術品を修めた宝庫です。特に「美術の殿様」と称された、第16代当主細川護立侯(もりたつ1883〜1970・・細川護熙・もりひろ氏の祖父)は横山大観と交流があり、大正から明治にかけての勅題画を多く有しています。

古書や美術品の販売、出版、美術館経営をする京都市左京区の「思文閣(しぶんかく)美術館」では創業70周年の記念として、2007年の11月〜12月、特別企画「細川護貞(もりさだ)を偲ぶ 永青文庫特別展」を開催していました。17代当主・細川護貞(もりさだ)氏の3回忌と併せて行われました。

【永青の名の由来】・・「永」は京都建仁寺塔頭・永源庵(永源院・・細川家菩提寺)の「永」と、肥後細川家初代当主・細川藤孝(幽斎)の居城・山城青龍寺(信長より与えられた、京都府長岡市勝龍寺・しょうりゅうじ)の「青」の二文字をとりの作品を多く有しています。第16代・細川護立侯が名付けました。


名前の由来となった寺・・●永源院・・京都市東山区建仁寺塔頭  ●勝龍寺城(青龍寺)・・京都市長岡市・・いずれも細川家ゆかり












細川家は戦国時代の細川藤孝(幽斎・・雅号 1534年〜1610)以来、代々文武両道を重んじ、歴史資料・美術品に造詣が深く今日に至っています。細川家は、数多くの文化財を管理保存・研究し一般公開しています。現在の建物は旧細川侯爵家の事務所として、昭和初期に建てられたものです。

●永青文庫・・建物













●建物は4階まであります。











★2F・・細川家に伝わる能楽の世界、数多くの能面や謡本が展示されています。細川幽斎は連歌や太鼓の名手ともいわれる文化人でした。

★3F・・・・細川家伝来の歴史資料、美術品が中心です。

信長(「天下布武」の刻印))や秀吉の書状がま近に、感動!

織田信長朱印状(重文)・・藤孝宛、 織田信長黒印状重文)・・幽斎宛、光秀宛、 羽柴秀吉知行目録重文)・・幽斎宛、 羽柴秀吉知行宛行状重文)・・幽斎宛etc、 細川幽斎筆の連歌の書・秋草図和歌扇面・扇面歌文、幽斎書状重文)etc。信長・秀吉関連の書状は59通所蔵し、2015年に一挙に公開されています。

(写真;滋賀県近江八幡市安土町安土駅前の信長公像と「天下布武」の朱印)





4F入口(フロアと調度品)

★4F;企画(特別)展示
・・重要文化財 長谷川等伯障壁画展 南禅寺天授庵と細川幽斎

細川幽斎は応仁の乱で荒れた南禅寺・天授庵を再興しました。この寺には細川幽斎の墓所があります。長谷川等伯(1539〜1610)は細川家と交流があった縁で、天授庵・方丈に障壁画が描かれました。天授庵の「禅宗祖師図(ぜんしゅうそしず)」(重文・・禅の悟りの境地を表現した画)や「松鶴図」(重文)などの障壁画、「細川幽斎像」(重文)「細川幽斎夫人像」(重文)などが公開されています。

長谷川等伯というと「楓(かえで)図」(国宝・智積院蔵)や「松林図屏風」(国宝・東京国立博物館蔵)が有名ですが、今回展示された、直線的で力強い筆致の禅宗画も圧巻でした。
















●庭園から山を登りましたが、こちらの平地の白い門からも入れます・・この前の道路を北に3分進むと目白通りに出ます。















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