新撰組・幕末の目次に戻る


TOPページに戻る


◆◆新撰組・幕末の部屋

西本願寺・・
土方歳三、
西本願寺・北集会所の窮状を訴える記録発見 
 

2014.9 京都市下京区花屋町下る・西本願寺

浄土真宗本願寺派の本山・西本願寺は2014年9月2日、新撰組副長・土方歳三が屯所としていた西本願寺・阿弥陀堂北隣の北集会所(現在の参拝会館)の窮状を訴える記録を発見したと発表。元治2年(1865)3月壬生の屯所から西本願寺に移ってきた3か月後の1865年6月(8月中旬)、「畳1畳に一人が寝る有り様。炎暑の時節、病人も出ていて公用もできず、本当に我慢できない」として阿弥陀堂の一部50畳の使用を要求した。寺は別の場所の利用を認め風通しの良い部屋を提供したという。

御影堂門  阿弥陀堂門  ●阿弥陀堂













●太鼓楼

太鼓楼は法要の合図の太鼓を打ち鳴らすために造られました。3階建ての楼閣建築で、1760年、親鸞上人の500回大遠忌に整備されたようです。

1864年6月5日の池田屋騒動を境に新撰組の人気が急上昇して隊士が増え続け、壬生の屯所が狭くなったため、元治2年(1865)3月10日より2年間、この場所が新撰組の屯所となった。太鼓楼の近くの施設であった北集会所(現在の参拝会館)も使用した。屯所には新撰組の看板を掲げた。

寺に望まれたのではなく、新撰組が押しかけたようだ。山南は、強引な西本願寺への移転をめぐって土方と対立したという。山南敬助は引っ越しの半月前の2月23日に脱走の罪で切腹している。

土方の目的は長州派とつながっていた寺ににらみをきかせるためでもあった。新撰組は煮炊きしたり、実弾の演習を行ったり、粗暴な生活で寺の僧侶や門徒は生きた心地がしなかったという。


太鼓楼と説明板












新撰組・幕末の目次に戻る


TOPページに戻る

inserted by FC2 system