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◆◆新撰組・幕末の部屋

★石田寺(せきでんじ)・・土方歳三の墓 2016.5 東京都日野市石田1−1−10

■高幡不動尊の末寺、真言宗智山派。天文13年(1544)7月、多摩川が大洪水となり一体の観音像がこの石田村に流れ着きました。廃寺にこの観音像を祀ったのが始まり。文禄2年(1593)、慶心という僧が堂宇を建てました。歳三の生家はこの寺の近くにあったとされています。





























●六地蔵 ●稲荷社 ●本堂












●光輪堂・・日野七福神・福禄寿を祀る ●十一面観音(北向観音)堂・・勝負に強く、病魔を退散させる

●カヤの木・・樹齢450年以上、昭和50年に日野市の指定天然記念物になりました。この木の下で歳三も遊んだと思います。













■土方歳三の墓・・土方家の墓がたくさんありますが、案内板が目印です

土方歳三義豊は、天保6年(1835)、土方義諄の4男として生まれ、青年時代は家業(農業、薬の製造、販売)を手伝いながら近藤周助について天然理心流を学び、近藤勇、沖田総司らと知り合った。文久3年(1863)、幕府は将軍家茂の上洛の際、京都における警護の浪士を募集し、近藤、土方らも浪士組に加わり、新選組を結成した。近藤が局長、土方が副長となり、京都の治安維持に努めた。
その後、慶応3年(1867)10月の大政奉還により、慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いが勃発し、土方らも参戦したが敗れた。以後、勝沼・宇都宮・会津と転戦し、仙台で榎本武揚(たけあき)の率いる幕府艦隊と合流した。そして、北海道へ渡り、箱館政府設立に参加し、土方は陸軍奉行並に選任された。
明治2年(1869)、官軍の反撃が始まった。土方は弁天砲台に孤立した味方を救出するために、箱館市内に突入したが、午前10時頃腹部に銃弾を受けて戦死した。

五月十一日没  三五歳  法号 歳進院殿誠山義豊大居士 日野教育委員会
















●土方家の墓に並んで、歳三の墓があります。引き墓(供養のために造られた墓)で埋葬はされていません。奥にカヤの木が見えます。この寺で、去る5月7日に歳三忌が行われました。たくさんの花が手向けられています。












●墓石に歳三の法号 歳進院殿誠山義豊大居士が刻まれています。遺影も印象的です。















●土方の子孫により建立された顕彰碑

カヤの木の傍らにあります。「明治百年祭 土方歳三義豊之碑   名録 土方康謹書」とあります

















★高幡不動尊  2016.5  東京都日野市高幡733

●仁王門  ●五重塔  ●ひの新選組まつりが終わり静けさが漂います












●和装の土方歳三像















●不動堂















●不動堂前の、鉢植えのあじさい・・「丸山牡丹」が咲いていました















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